引用
115
リアクション
"まず大きな問題は、他者とのコミュニケーションにおいて、
議論の「内容」を通り越して、
あまりにも「心理的」な反応をすることで
コミュニケーション自体を不成立に至らせてしまう傾向だ。
あまりに使い古された表現で言うのも憚られるが、
「意見の批判は人格の否定ではありません!」というお題目が指し示す通り、
主張や議論の「内容」自体とその主張をする人間の人格の好悪とは何の関係も無い。
論理展開の誤りや事実誤認、論点の見落としなどを指摘する行為に、
「ポジティブ」も「ネガティブ」もない。
逆に言えば、いくら議論でコテンパンに「敗北」したとしても、
それはあなたの存在そのものが否定されたことではなく、
あなたが「人格を否定された!」と感じ「傷つく」理由はどこにもない。
そして、そうした事実の正誤判定や論の妥当さの検討は、
発信者のバックグランドや人格、動機や事情を全く知らない
「赤の他人」であっても同じ土俵の上で行うことが可能であり、
一度自分の口から何かを発信した以上、その主張は
いつ何時、あらゆる人からの批判や検討の目を浴びる
可能性があるのは当然なことであって、
それが<自由>な議論ということだ。
自分が<自由>に発信をしたいというのなら、
同じように他者から<自由>な反論が来ることを
覚悟しなければならない。
ところが昨今多く目につくのは、
その人の人格とは関係ない(従って傷ついたり怒る必要もない)
議論の「内容」自体に対する批判の意見を受けたということだけで、
「自分にネガティブな感情を抱いている」
とか
「自分は嫌われ者だ」
という風な感情的な反応をしてしまう人がいること。
また、そういった反応をしてしまう当事者以上に問題なのは、
その人の「取り巻き」が勝手に当事者のための「正義の代理人」となり、
「アンチは相手にしちゃ駄目ですよ」
といったそそのかしをすること。
主張の「内容」自体に関する批判や反論は
活発に行われてしかるべきだし、その議論が
元の主張をより妥当性の高いものへと発展させる
役割を担うこともあるわけで、それは決して
批判を受けた本人にとっても「ネガティブ」で
忌避すべき出来事ではないはずだ。
それなのに、自分が発した主張の内容に責任を
負わず、他者の意見に耳を傾けることすら放棄し、
○:「ポジティブ」 ×:「ネガティブ」といった「心理的」な反応を
してしまうことは、非常にもったいないことだと思う。
*
更にタチが悪い場合は、
議論をシャットアウトするだけに飽き足らず、
コミュニケーションが成立しない理由を、
議論そのものではなく、
年代や所属といったその人のバックグラウンドであったり、
批判を加えた人を「無礼」だとか「悪人」だとか言って
その人のパーソナリティの問題に帰結させようとしてしまう。
相手が「人間的」に問題ありだということにしておけば、
「そんな相手とは対話や議論をするつもりはない」といって
議論そのものから逃避することが出来る。
しかし、そのような「敵」「味方」のラベリングを繰り返して
自分に近しい「味方」だけの意見を聞いているだけでは、
議論の「内容」を批判検討して主張や見解を更に深める機会を
自ら捨てることとなってしまう。
僕がこの事態を最も憂慮するのは、
最も多くを吸収し、成長する可能性を秘めた
若者世代(自分も若いんだけど)に
このような他者不在のコミュニケーションの癖が染み付いてしまい、
視野を狭めてしまうことであり、
それがソーシャルメディアによってますます助長されるのではないかということだ。
若者世代がよく、若者を理解しようともせずに凝り固まった偏見のもとに
若者世代を批判する年長者のことを「老害」と表現するが、
その一方で自分自身も年若くにして「老害」と同類の存在に
なってしまっているような同世代をちらほら見かける。
彼らは、「インターネットで個人がフラットにつながる時代だ!」と、息を巻きながらも、
自分に同調する者以外は「今の時代や価値観が分かっていない、遅れた人」と
ラベリングして見下し、排除してしまう。
だがそれは結局、「フラット派」の彼ら自身が世代間対立を再生産する行為であり、
彼らが攻撃するところの「老害」と全く同じ特徴である、
視野狭窄と他者への不寛容の発露でしかない。
*
最も下品なのは、
「心理」や「人格」を理由に
他者と交わり議論を闘わせることすら避けている人間が、
「世界を変える」などという大義名分を掲げて好き放題をすることだ。
世界は自分を中心に回っているのではない。
自分が存在するのと同じだけの重みで他者も存在しているのであり、
自分に好き嫌いや意見があるのと同様に、
自分以外の他人も好き嫌いや意見を持っており、
当然それが自分と異なる可能性もある。
しかし、上記のように「心理的」「人間的」な
過剰反応でもって他者をシャットアウトし、
自分と異なる意見を持つ他者と交わることを避け続けた人間は、
その過程でどんどん「世界」を狭く、小さなものへと貶めてゆく。
そしてそれと反比例するかのように、自分と同調する者だけを
便利な道具のようにコレクションし、屈折した自我を肥大化させてゆく。
肥大化した自我が子どもっぽい征服欲と結びついた時に
生まれやすいのが、「世界を変える」とか「社会を良くする」といった
耳障りの良い大義名分である。
しかしその者が言う「世界を変える」とは、
自分の都合の良いように世界を塗り替えたいという意味に過ぎず、
そもそもの「世界」認識が貧弱なのだから、
それは結局多くの他者の共感を得られないし、歓迎されることもない。
ところが勘違いが留まるところを知らないと、
「変革者は大衆の共感を得られない」
とか
「10年先に自分が正しかったことが分かる」
とか
「だから今自分が嫌われるのは仕方ない」
などと言って、ついには自分を悲劇のヒーローに仕立て上げるのだ。
やってる本人は気持ち良いのだろうけど、
残念ながらそれは、裸の王様だ。
それは、ただのマスターベーションだ。
自分以外の他者と向き合い、痛みを引き受ける覚悟を
持たない人間に世界を変えることなど出来るはずがない。
*
今回上記のようなことを書いたのは、
当事者であるイケダさんや高広さんよりむしろ
お二人のフォロワーの中で、
非常に大人げなく、稚拙で、下品な発言をする人が
けっこうな数で見られたからだ。
(冒頭紹介したtogetterまとめに限らず、
その後しばらくの日々において)
そしてその中に、自分と同じ若者世代の人間の
発言も少なからずあったことに危機感を覚えたからだ。
この記事を通して誰か特定の個人を攻撃するつもりは毛頭無いが、
議論を健全に闘わせ、発展させるため、
あるいは自分と異なる他者と認め、共存するために
最低限必要な姿勢すら共有出来なければ、
ソーシャルメディア上の言論の未来は暗いと言わざるを得ない。
先達の営みを引き継ぎ、次代を担う若者の一人として、
また実際にソーシャルメディアをかなりの頻度で利用し、
そして多くの恩恵や希望も得ている人間の一人として、
問題提起をさせていただいた。"